梁瀬長太郎
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やなせ ちょうたろう
梁瀬 長太郎
1924年撮影
生誕1879年12月15日
群馬県碓氷郡豊岡村(現・高崎市
死没 (1956-06-11) 1956年6月11日(76歳没)
国籍 日本
出身校東京高等商業学校(現一橋大学)卒業
職業実業家
子供梁瀬次郎(二男)
親梁瀬孫平(父)
親戚漆山一(娘婿)
近山金次(娘婿)
尾澤金藏(娘婿)
鹿島昭一(義孫)
稲山孝英(義孫)
梁瀬泰孝(曾孫・養孫)
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梁瀬 長太郎(やなせ ちょうたろう、1879年明治12年〉12月15日 - 1956年昭和31年〉6月11日)は、日本の実業家位階正六位勲等勲五等

大阪商船株式会社三井物産株式会社での勤務を経て、梁瀬商会社長、輸入自動車協会会長(初代)、梁瀬自動車株式会社社長(初代)、梁瀬商事株式会社社長(初代)、梁瀬自動車工業株式会社社長(初代)、梁瀬自動車株式会社会長(初代)などを歴任した。
概要

群馬県碓氷郡豊岡村出身の実業家である。1879年明治12年〉12月15日に生まれ[1]東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した。ヤナセの創業者として知られる。関東大震災を機に売上げを伸ばす。ヤナセの前身である梁瀬自動車の初代社長や、輸入自動車協会初代会長、全国自動車整備組合理事長、日本機械輸入協会会長、山王ホテル取締役を歴任した[2]1956年昭和31年〉6月11日に死去した[1])。
人物
生い立ち

群馬県碓氷郡豊岡村(現在の高崎市)に、梁瀬孫平の長男として生まれる。梁瀬家の先祖は甲州武田家遺臣であり、武田勢が戦いに敗れた時、群馬県まで逃げ高崎の一歩手前の豊岡村に土着して農業、精米、養鯉などを家業としていたという[3]

豊岡村の尋常小学校、碓氷郡八幡村高等小学校を経て、前橋市の群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学[4]。その後単身上京し、群馬県尋常中学校から東京築地の東京府尋常中学校(現・東京都立日比谷高等学校)に転校した[4]。故郷の豊岡村から自分で農産物を持ってきて、下宿の前で近所の人に安く売るなどして、学費と部屋代、本代をまかない、苦学して卒業した[5]

1904年(明治37年)、東京高商を卒業した梁瀬は大阪商船(現商船三井)に入社し、その後三井物産に転じた。
実業家として

1915年大正4年)、梁瀬は三井物産機械部から独立して、同社から輸入自動車及び輸入鉱油類の一手販売権を譲渡されるとともに、270坪の工場及び店舗の貸与を受けて東京・日比谷に個人商店「梁瀬商会」を設立、アメリカの自動車であるビュイックキャデラック、同じくアメリカ、バルボリン社製鉱油類の輸入販売を始めた[6][7][8]。同年に設立された日本自動車協会において梁瀬は理事となった[9]。2年後には事務所を東京・呉服橋に移転、1920年(大正9年)には事業別に独立した会社組織、梁瀬自動車株式会社(自動車)と梁瀬商事株式会社(鉱油)を設立して両社の社長に就任した[10]

しかしながら経済大不況から、仕入れた車はほとんど売れず、ノイローゼに掛かった梁瀬は妻を連れて欧州に逃げるように旅行に出かけた。身も心も、会社も、瀬戸際に追い詰められていた1923年(大正12年)、関東大震災が発生した。大災害の時は、「物より人の移動が優先する」との直感で、独立の恩人である三井物産の常務であった山本条太郎や周囲の猛反対にもかかわらず、大量の在庫を抱える中で震災直後にGMに乗用車2000台を新たに注文、横浜へ出荷し、それが当たって破産寸前から立ち直った[1][11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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